信託保全とは、顧客から預かった資産を金融機関に信託して、保全すること。例えば業者が倒産した場合でも、預けている資産は信託保全によって返還される。 FX 初心者を務めていた喜多村槐園の三男として生まれる。長兄の喜多村直寛は幕府医学館考証派の重鎮として著名である。1843年、幕府の学問所である昌平坂学問所に入学し黌試(校試)において優秀な成績を修め褒賞を得ている。1848年、栗本氏の家督を継ぎ、ついで奥詰医師となる。安政年中、医学館で講書を務めており、各年末には褒美を与えられている。のち医師に関する禁令に触れた廉で、一時謹慎となる(先輩の奥医師(岡櫟仙院とも)の讒言によるという)。1858年2月24日、蝦夷地在住を命じられ箱館に赴任する。 以後、鋤雲は箱館で医学院の建設、薬園経営に尽力した。その実力を認められて、1862年には箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられた。1863年、探検から戻ると即座に幕府より江戸に戻るように命令が出る。幕府も箱館における鋤雲の功績を評価していたため、鋤雲は昌平坂学問所の頭取、目付に登用されたのである。さらに外国奉行に昇進する。慶応2年正月14日には従五位下・安芸守に叙任されている。勘定奉行小栗忠順らと親交を結ぶ。 日経225はフランス駐日公使ロッシュの通訳を務める人物と箱館時代に面識があったため、その経緯からロッシュとも仲が良くなった。そのため、幕府よりフランスとの橋渡し役として外国奉行に任じられ、幕府による製鉄所建設や軍事顧問招聘などに尽力している。徳川昭武の一行がパリにおける万博博覧会に訪問していたときには、その補佐を命じられたため、鋤雲もフランスに渡った。そしてそこで、日本の大政奉還と江戸幕府の滅亡を知る。 1868年にフランスより帰国する。鋤雲の才能は新政府からも評価されていたため、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があった鋤雲は新政府に仕えることを潔しとせず、それを謝絶して隠退した。1873年、「報知新聞」の主筆を務め、以降はジャーナリストとして活躍した。 父は浜御殿奉行の木村喜彦(よしひさ)。天保13年、浜御殿奉行見習として初出仕する。同年より昌平坂学問所で学ぶ。 先物取引、老中阿部正弘によって目付に登用される。この際に若い木村を強く推薦したのが昌平校時代の先輩の岩瀬忠震だった。 安政4年(1857年)、長崎に赴任した木村は長崎海軍伝習所の取締に就任する。木村の赴任当初の伝習所は多くの生徒が丸山の遊郭などの悪所に入り浸るなど風紀が乱れており、また奉行所も彼らを別格扱いして特に取り締りなどは行っていなかった。 木村は長崎奉行・岡部長常と協力して風紀の引き締めを行い、宿舎の狭い部屋に大人数を押し込めておくことによるストレスが悪所通いの一因と見て、伝習所近辺の空き屋敷を借り上げるなどして生徒の住環境の改善を併せて行った。また、それまで長崎周辺の狭い海域に限られて行われていた訓練航海を他藩の領海を含めた広い海域で行えるようにし、生徒の操艦技術の向上に寄与した。 先物取引においてペルス・ライケン、カッテンディーケらオランダ人教官らと交流できたことは、後年の渡米の際に役立つことになった。木村は長崎を去る際、厚誼の礼として家伝の太刀をカッテンディーケに贈っている。 安政6年(1859年)5月、木村は海軍伝習所の閉鎖に伴って江戸へ帰り、目付に復帰。同年6月に締結された日米修好通商条約の批准のためアメリカに使節を派遣することになり、軍艦奉行・水野忠徳の建議で、米艦ポーハタン号を使用する正使新見正興一行とは別に咸臨丸を派遣することになる。9月10日、軍艦奉行並に任じられていた木村は咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ、軍艦奉行に任じられる。 木村は乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者で固めると共に、通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎を選ぶなど航海の人選を進めた。その際、アメリカ行きを希望した福澤諭吉と知り合い従者として連れて行くことになった。また、航海の道案内と米国側との連絡のため、海軍大尉ブルックを始めとする米国の軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせた(ブルック等が帰国の為に咸臨丸に便乗したというのは誤り)。 万延元年(1860年)1月19日、浦賀を発った咸臨丸は2月26日にサンフランシスコに到着し、木村ら一行は遅れて到着した正使一行と共に市民の熱烈な歓迎を受ける。また、公式の歓迎行事の他に咸臨丸が修理を受ける間、現地の人々との交流も行っている。ワシントンへ向う正使一行と別れ、閏3月19日にサンフランシスコを発った咸臨丸はホノルルを経て5月5日に浦賀へと帰還した。 帰国後の木村は軍艦奉行の職務に復帰。幕府海軍の創設を目指して様々な活動を行っている。 文久元年(1861年)6月2日、軍艦組を創設。翌年には御船手組を統合し小普請組からも人数を補充することで海軍の組織としての体裁を整えた。 文久2年(1862年)5月2日、初の国産蒸気式軍艦“千代田形丸”の建造を開始(完成は1867年)。併せてアメリカとオランダに軍艦計3隻(富士山丸、東艦、開陽丸)を発注する。同年6月18日、9名の留学生をオランダに派遣(当初、留学先にはアメリカを予定していたが南北戦争勃発により果せず)。このとき派遣されたメンバーには榎本武揚・赤松則良をはじめ、西周・林紀など海軍だけでなく後に明治の政治・教育・医学分野の発展にも貢献する人物も含まれていた。 木村は、日本周辺海域を6つに分割し、それぞれの海域防備を担当する艦隊を江戸・函館など6箇所に配置する構想を持っていたが、幕府首脳は必要な艦船の調達と人員の育成に時間がかかるとの理由で却下される(この構想は明治に入ってから連合艦隊として結実する)。また海軍に優秀な人材を集めるため身分によらない人材登用と西洋の軍隊を模した階級・俸給制度の導入を建議したが、これも身分制度の崩壊を懸念する幕府首脳には受け入れられなかった。こうして文久3年(1863年)9月26日、木村は失意の内に軍艦奉行の職を去ることになる。 元治元年(1864年)、木村は開成所の頭取に就任、次いで目付に再任され幕政に復帰する。しかし翌慶応元年(1865年)、兵庫開港問題を巡って老中小笠原長行と対立し、罷免される。慶応2年(1866年)、再び軍艦奉行並となり小栗忠順・勝海舟らと共に海軍の組織整備を進め、翌年には幕府海軍に西洋式の階級・俸給制度が導入される。 明治元年(1868年)には勘定奉行に進み、戊辰戦争では江戸城開城の事務処理を務めた。 新政府からもその実力を評価されて、仕官の誘いがあったが、木村はそれらを全て謝絶し、親友の福澤諭吉と交遊しながら、詩文を読む生活を送ったといわれている。明治34年(1901年)、72歳で死去。戒名は芥舟院穆如清風大居士。千駄ヶ谷の瑞円寺に埋葬されたが昭和8年(1933年)に青山墓地に改葬された。 初出仕の際、父親が年齢を17歳と偽って幕府に届け出ていた(実際は12歳)。 渡米の際、木村は咸臨丸の乗組員たちが西洋の軍人に対して見劣りがしないように、士分の者には加増、それ以外の者達にも相応の俸給を幕府に要望したが受け入れられなかったため、家財を処分して3千両の資金を捻出してこれに宛てた。幕府からも渡航費用として5百両を下賜されたが、これには殆ど手を付けず、帰国後に返還している。 サンフランシスコ入港後、木村は乗組員らに「無断外泊の禁止」「単独行動の禁止」「私的な飲食(飲酒)の禁止」などを通達したため咸臨丸の一行は現地の人々との間にトラブルを殆ど起こさず、その礼儀正しさを賞讃された。 サンフランシスコで新聞社を訪問した時に、印刷した名刺をプレゼントされた。本事例により、日本人として最初に印刷した名刺を使用した人物とされる。 ちなみに、 「Admiral KIM-MOO-RAH SET-TO-NO-KAMI, Japanese Steam Corvette CANDINMARRUH.」