スプレッドとは、売り(ビッド:bid)と買い(アスク:ask)の差額の事を言います。従ってドル/円が「110.00 - 110.10」の場合の、スプレッドは10銭ということになります。 スプレッドは、簡単に言うと業者の儲けです。スプレッドが大きければ大きいほど、より安く売り、より高く買う事になります。 資産運用の子に生まれ、江戸の仏学者村上英俊塾に入門する。幕府では祐筆役を務めていたとされる。 慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が起こると、陸軍奉行並に任命され、陸軍総裁勝海舟の下で旧幕府軍の新政府軍への反発を抑える役目を負うが、主戦論者だった松平は大鳥圭介や榎本武揚らと図って自らも抗戦に参加。江戸を脱出し、会津戦争が敗れると榎本らと共に蝦夷地へ渡った。 蝦夷共和国の選挙にて副総裁に就任。主に民政・外交面で活動し、榎本の女房役を勤める。榎本の「洋才」に対し、松平の「和魂」と言われ、人望は厚かった。明治2年(1869年)5月の榎本軍総攻撃の際には、箱館奪回部隊の隊長として奮戦するも敵わず、18日に降伏した。箱館戦争降伏後は、牢獄生活を経て明治5年(1872年)に釈放され、明治政府に開拓使御用係・開拓使五等出仕に任ぜられて箱館在勤を命じられたが、翌年には辞した。 その後はロシアのウラジヴォストーク港で貿易商、中国で織物業などを営むが、いずれも失敗。晩年は妻と子に先立たれ、弟小六郎とともに榎本武揚の保護下で生活していたと言われている。 外国為替証拠金取引、豆州賀茂郡の湯本屋で病死。死亡日は5月24、25、26日説がある。享年71。 また、松平太郎を尊敬していた高木正次という人物が、松平太郎の名を襲名した。 江戸時代末期の大名・陸奥国会津藩9代目藩主であり、また最後の藩主でもある。京都守護職。美濃国高須藩主・松平義建の六男で母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の1人。幼名は_之丞。官は肥後守。号は祐堂、芳山。神号は忠誠霊神。正室は松平容敬の娘。子は松平容大(長男)、松平健雄(次男)、松平英夫(五男)、松平恒雄(六男)、松平保男(七男)。養子に松平喜徳。現在、徳川宗家は直系、徳川慶喜家、尾張徳川家は傍系で容保の系統で構成されている。(四男恒雄の子孫) 弘化3年(1846年)に8代藩主・容敬の養子となり、嘉永5年(1852年)に会津藩を継ぐ。万延元年(1860年)に大老・井伊直弼が水戸藩浪士に殺害された桜田門外の変では、水戸藩討伐に反対する。井伊暗殺後に朝廷や薩摩藩の後援で将軍後継となった一橋慶喜(徳川慶喜)、政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、文久2年(1862年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推される。元々病弱な体質でこの当時も風邪をひき病臥していた容保は、はじめ家臣の西郷頼母らの反対により固辞するも、慶永らの強い勧めによりこの大役を引き受けることとなる。 投資信託に就任した容保はさっそく会津藩兵を率いて京都へ上洛し、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、最初は倒幕派の者とも話し合っていく「言路洞開」の方針で治世をすすめた。最初の容保の動向に対しては慶喜たちは呆れていたという。 その容保を激怒させる、徳川家に弓引く事件が起きた。足利三代将軍の晒し首事件(足利三代木像梟首事件)である。これが起因で容保は政策を180度転換して配下の壬生浪士組(後の新選組)などを使い上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたる。天皇御前で馬揃えをやったり宮門警備を申請するなど駆け引きを繰り広げた。容保自身は公武合体派で尊王倒幕派と敵対し、八月十八日の政変では薩摩藩と手を結んで御所を封鎖し、三条実美ら長州派を朝廷から排除した。その後は朝廷参預に任命されたが、参預会議は崩壊。徳川慶喜と弟で京都所司代の松平定敬の3人で一会桑政権を作り京都の政治を指揮した。1864年(元治元年)の禁門の変などで、長州藩の勢力排除に動いた。 日経225に孝明天皇が崩御し、容保本人は守護職辞退を何度も申し立てるが幕府も朝廷も認めなかった。朝廷の命令により、容保は京都残留となる。 慶応3年(1867年)に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が消滅すると京都守護職も廃止される。王政復古が行われ、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府の兵との衝突から鳥羽・伏見の戦いが起こると会津藩兵も戦うが敗走し、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱すると従い、弟・定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下る。慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内では武装恭順が大方の重臣の意見であった。 容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行う。西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城の無血開城が行われたというが、実際にはイギリスからの攻撃停止の圧力に新政府軍は逆らえなかったのである[要出典]。新政府軍は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧すると北陸地方へ進軍する。容保は幕府派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い篭城し、降伏勧告に応じて佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。 FXその後は鳥取藩に預けられ東京に移されて蟄居するが、嫡男・容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられた。容保はそれからまもなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため死亡する。享年59。死の前日には明治天皇から牛乳を賜った。なお、容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際書簡と御製(和歌)を賜ったのだが、彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。また幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。 孝明天皇の宸翰の中には京都守護職である容保の職務精励を嘉する文章があり、如何に孝明天皇が容保を信頼していたかを物語っている。これは松平容保を乱臣賊子とする薩長主体の歴史観からは、甚だ脅威的なもので、薩長側にとってはまさにその存在を抹殺しなければならないものといえた。後に山縣有朋はこの宸翰の内容を知って驚愕し、密かに2万円(現在の貨幣価値に換算すれば数億円以上の価値になる)で譲渡するように働きかけた[要出典]。その勧誘の中には「所詮会津松平は朝敵」とばかりに、強談判同然のものもあったと言われるが、会津松平家からは一切黙殺されたという。 墓所は福島県会津若松市の松平家院内御廟。 昭和3年(1928年・明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(松平容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。また、同年には子母澤寛『新選組始末記』、平尾道雄『新選組史禄』が刊行されており、この年は逆賊新選組再評価の転機となる年であった。